**みよこさんのこと**







みよこさん、と名前を呼んだ。
なあに、とみよこさんが答える。

私を見る。みよこさんが笑う。まりちゃん、と名前を呼んでくれる。


もっと、呼んで。私のなまえ。







 みよこさんは芸術家だ。みよこさんは丘の上の大きな家でひっそりと暮らしている。
 みよこさんの同居人は猫だ。種類は黒い猫と白い猫とぶち猫と三毛猫。数は全部で6匹。たまに7匹。
「どこから来るのかわからないの。たまに増えたり減ったり。でも私が呼ぶと、皆そばに来てくれるの。だから私、寂しくないの」
 そう言って、みよこさんは笑う。足元には7匹の猫たち。にゃあにゃあと鳴いている。
 
 みよこさんは私が通っている大学の聴講生で、ドイツ語の授業で一緒になった。
 一目惚れだったんだと思う。若い私たちのような学生たちの中で、みよこさんはとても目立っていた。美しいことばの発音、優雅な動作。とても凛として美しい、そんな大人の女性だと思った。
 最初は好奇心。
 思い切って声をかけて、そして彼女が微笑みかけてくれたとき、私は恋に落ちた。
 それは必然だった。私は彼女を、愛している。


 みよこさんはとても若い。いつも綺麗に化粧をして、いつも素敵な服を着ている。
 素敵なアクセサリー。素敵な身のこなし。みよこさんはとても素敵。モデルみたいだ。
 みよこさんは昔、フランスに住んでいたという。
「素敵な人はたくさんいたの。でも私は彼が忘れられなかった」
 みよこさんはとてももてる。いつもひっきりなしに電話が来る。ラブレターだって常にたくさん。
 それは国内から、それは海外から。世界中の男性が、みよこさんに夢中なのだ。


 みよこさんの旦那さん、どんな人だったのだろう。
 もうこの世にはいないとみよこさんは言った。
 旦那さんが亡くなったのは、二人が結婚してわずか二年後のことだった。


「素敵な人だった。心が綺麗な人だった。少しエキセントリックな人でね、評論家になりたいと言っていたの。私はまだ10代で、彼もまだとても若くて。私たちは若かったの。愛さえあればなにもいらないとそう思っていたの」
「そりゃあ周りに反対されてね、父は私を勘当すると言った。でも私は彼を愛してた。とても幸せだった。それでもね、貧しくて貧しくて寂しくて悲しくて夢に家族が出るの。お父さんとお母さんが出るの。そしてある夜、こっそり実家の前まで行ったの。ずっとずっと立っていた。夜が明けて、部屋に明かりがともるまで、ずっと立って泣いていたの。でも、それからすぐに帰ったわ。あの人のところまで帰ったの」



 みよこさんは笑う。少しだけ寂しそうに笑う。
 みよこさんはずっと、ただ一人の人を愛している。長い間ずっと、ただ一人の人を愛している。
 私は嫉妬する。その歳月には、きっと私の想いも、かなわない。


 旦那さんが亡くなって、みよこさんは一生懸命働いた。
 そしてお金を貯めて、50歳のときに、フランスに渡った。
 昔から好きだった絵を始めて、フランス語を勉強して。



 ああなんて、この人は強いのだろう。
 ああどうして、私はもっと早く産まれなかったんだろう、出会わなかったのだろう。

 みよこさんが好き。とても好き。こんな気持ち、初めてだ。






「まりちゃん」
 みよこさんが呼ぶ。私に手招きをする。私はみよこさんのそばに寄り添う。私は無意識に、みよこさんのすべすべの頬に手をあてた。そして撫でる。ゆっくりと、優しく。労わるように、そっと。
 みよこさんは少しだけ驚いたように私を見つめて、自分の頬に添えられた私の手のひらを握った。
「私はずっと独りだったけどね、優しくしてくれる人は沢山いたの。だけどいつも寂しかった。でも今は、寂しくなんてないの」
 そう言って、みよこさんはわたしを抱きしめた。私は黙る。かすかに、みよこさんが笑うのを耳元で感じる。耳の奥が熱くなる。みよこさんの吐息が、ひどく、愛しい。
「こうやって、まりちゃんが遊びに来てくれるからね」
 優しい声に、泣きそうになる。

 好きです、あなたが。心から、本当に。
 そう言いたいのに、言い出せない。


 私は何も答えないで、みよこさんを抱きしめた。強く強く抱きしめた。
 抱きしめて、目を閉じる。まぶたの裏で、みよこさんの旦那さんが見えた気がした。



  
「みよこさん」
 しばらくみよこさんを抱きしめてから、私は顔をあげた。やっとのことで、声をだした。目の前にはみよこさんの瞳。綺麗な瞳。嬉しかったとき、悲しかったとき、つらかったとき、悔しかったとき。この瞳は、どんな情景を映し出してきたのだろう?
 あなたのことが、もっと知りたい。あなたの最期が、私のものになればいいのに。
「……名前、呼んでください」
 そう言って、私はみよこさんを見つめた。
 みよこさんはじいっと私を見つめる。私はじいっとみよこさんを見つめ続ける。
 綺麗な瞳。とても澄んだ瞳。この瞳の中に、今私は居るのだ。
 私はたまらなくなって、切なくなって、みよこさん、と、もう一度名前を呼んだ。
 そんな私を見つめて、背中をさすって、みよこさんが笑う。まりちゃん、と名前を呼ぶ。
(もっと、呼んで。私のなまえ)
 声にならない声が、幸福感が、私の身体を駆け巡る。




 名前を呼んで、私を見つめて。今はそれだけで、それだけで、いいから。
 他には何も、何も望まないから。








みよこさん、と名前を呼んだ。
なあに、とみよこさんが答える。

私を見る。みよこさんが笑う。まりちゃん、と名前を呼んでくれる。


もっと、呼んで。私のなまえ。






end.







2007/6/8










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